奸雄の謎 2(品三国/閲読中国史) | 中文系.com

奸雄の謎 2(品三国/閲読中国史)

曹操は子どもの頃から狡猾であった。この人物は、生まれが悪く、親の教育が悪く、幼少期の素行は悪かった。曹操、あざなは孟徳、幼名を阿瞞または吉利といった。沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身である。陳寿の『三国志』には前漢の相国(廷臣の最高職)である曹参の子孫と書かれているが、これはでたらめであろう。というのも、曹操はそもそも曹氏ではない。父である曹嵩が曹騰の養子となったことで曹氏を名乗るようになったのである。曹嵩と曹騰に血縁関係はない。仮に曹騰が曹参の子孫であることが証明されたとして、それが曹操とどう関係するのか?実際、曹嵩の実の両親が一体誰なのか、当時は謎であった。陳寿ですら「誰もその出生の顛末を調べることができない」としか言えなかった。真相は曹操自身も秘匿していた。彼は『家伝』の中で、「曹叔振鐸の子孫」と自称し、その家系を周の文王まで遡っているが、これは輪をかけてでたらめであろう。しかし、後漢末期、社会や官界では生まれや家柄が極めて重視されていた。曹操はそのような風潮を嫌っていたが、政治的な理由で誇張せざるを得なかったのである。

実際のところ、曹操は宦官の家庭で生まれ育った。父である曹嵩は曹騰の養子である。曹騰は当時非常に有名な大宦官で、費亭侯(現在の河南省商丘市永城市新橋郷)に封ぜられ、大長秋(皇后に仕える全役人の責任者)を務めていた。大長秋は宦官の中でも身分が高く、俸給は二千石、今の言葉で言えば「省部級」(各省・直轄市・自治区の党委員会常務委員・中央各部の副部長以上の高官)である。曹騰の人となりは宦官の中でもかなり良く、知識人との関係も良好だった。彼は不名誉なこともしましたが、良い行いや大事業も多くしたため、『後漢書』の中に伝記がある。しかし、いずれにしても、曹操は宦官の養子の息子であった。これは、当時としては生まれが悪いと考えざるを得ない。しかし、家庭環境は良く、少なくとも金に困ることはなかっただろう。曹操の父である曹嵩は、後に太尉(名目上の全国最高軍事長官)となった。大金を出して買ったのである。曹家はこれほど裕福であったため、曹操が幼少期に放蕩三昧の生活を送っていた可能性は十分にある。

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