自分を裏切った友人に対してさえ、曹操は過去の友情を重んじた。一時期、陳宮と曹操とは極めて深い関係にあった。曹操が兗州牧(兗州の長官)に任命されたのは陳宮の功績である。その後、陳宮は呂布を徹底して助け、曹操と戦った。そして捕らえられたが、断固として降参しなかった。そこで曹操は彼のあざなを呼びこう言った。「公台よ、そなたが死んでも良いだろう。だがそなたの母君はどうなるのか!」と。陳宮は長いため息をつき、こう答えた。「孝によって天下を治める者は、人の親を傷つけない。それがしはそう聞いております。母が死ぬか生きるか、すべて貴方様次第です」と。曹操は再び尋ねた。「そなたの妻や子どもはどうなる?」と。陳宮は再び答えた。「仁政を天下に行う者は、人の子孫を絶やすことはない。それがしはそう聞いております。妻や子が死ぬか生きるか、これもまた貴方様次第です」と。言い終わると、もはや振り返ることなく、うなだれることもなく、毅然として刑に服した。曹操は涙を流し彼を見送った。陳宮の死後、曹操は陳宮の母を養い、陳宮の娘の嫁ぎ先の世話までした。彼の一族に対しては、陳宮と友人であった時代にも増して厚遇した。『三国志』には陳宮の伝記はない。この話は『呂布伝』に記されている。裴松之注では『典略』を引用し、より詳細に記載している。
甚至对于背叛了自己的朋友,曹操也很看重当年的情谊。陈宫和曹操有过一段不平常的交往,曹操出任兖州牧,就是陈宫的功劳。后来陈宫死心塌地地帮吕布打曹操,被俘以后,也死不肯投降。曹操便叫着他的字说:公台,你死了不要紧,你的老母亲可怎么办呀!陈宫长叹一声说:陈某听说以孝治天下者不害人之亲,老母是死是活,全在明公您了。曹操又问:你的老婆孩子又怎么办呢?陈宫又说:我听说施仁政于天下者不绝人之后,老婆孩子是死是活,也由明公看着办了。说完,头也不回,昂首就刑。曹操流着眼泪,为他送行。陈宫死后,曹操赡养了他的老母,还帮着把他女儿嫁了,对他们家比当初是朋友时还要好。《三国志》里面,没有陈宫的传,这事是记载在《吕布传》里的。裴松之注引《典略》,则说得更详细。
どうやら、曹操は度量の大きな人物であったようだ。
看来,曹操是宽宏大量的。
しかし、この度量の大きな男は、一方で自分本位であり、計算高く、恨みは必ず晴らし、手段を選ばない人物でもあった。彼には殺すことを躊躇するような人間はおらず、殺せない人間もいなかった。『三国志・武帝紀』裴松之注で引用された『曹瞞伝』によると、彼は兗州にいた時に高名な辺譲を殺している。辺譲は陳留の出身で、博学で弁舌の才があった。一時期、その著書『章華台賦』は至る所で語り継がれていた。大将軍何進から召し出され、蔡邕、孔融、王朗らの名士からも高く評価されていた。九江太守を務めた経験があり、その後は官職を辞して自宅にいた。辺譲自身も名士であったため、曹操のような宦官の養子をあまり認めていなかった。自分のような名のしれた者に対して曹操が何かできる度胸はないと思い込み、曹操を侮辱し、無礼なことを言っていたのであろう。この時、曹操はまだ宰相になっておらず、鷹揚に度量ある態度を取ることもできなかったことを誰が知っていただろうか。曹操は頑として辺譲を殺し、その家族をも殺したのである。沛相である袁忠と沛の出身である桓邵も曹操を軽蔑していた。辺譲が殺された後、彼らは交州に逃げ込んだが、家族は虎口に陥ってしまった。その後、桓邵は自首し、曹操の前に跪いて許しを乞うたが、曹操は憎々しげにこう言った。「跪けば死を免れることができると?そんなことはあり得ない。」と。桓邵は引き出され、斬首された。
但是,这个宽宏大量的人却又心胸狭窄,斤斤计较,而且有仇必报,不择手段。没有什么他不敢杀的人,也没有什么他杀不了的人。据《三国志·武帝纪》裴松之注引《曹瞒传》,当年在兖州时,他就杀了鼎鼎大名的边让。边让,陈留人,博学有辩才,所著《章华台赋》传诵一时,大将军何进曾特予征召,蔡邕、孔融、王朗等名士也都极为推崇,他本人也做过九江太守,后来辞官在家。边让自己是名士,自然不大看得起曹操这个宦官养子的儿子,可能很说了些侮辱不恭的话,自以为曹操不敢把他这个大名人怎么样。谁知此时的曹操还不是宰相,肚子里也还撑不了船,悍然把他杀了,而且还杀了他一家。沛相袁忠和沛人桓邵也看不起曹操,边让被杀后,两人逃到交州,家人却落入虎口。后来桓邵自首,跪在曹操面前求饶,曹操却恶狠狠地说:下跪就可以免死吗?当然不能。结果桓邵也被推出去斩首。
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