曹操の真の姿 2(品三国/閲読中国史) | 中文系.com

曹操の真の姿 2(品三国/閲読中国史)

これで英雄、奸雄、奸賊という3つの評価、3つのイメージが得られた。では、どの評価が最も正確なのか?

そのためには、歴史上の曹操が実際のところどのような人物だったのかをはっきりさせる必要がある。これは簡単なことではない。『三国志演義』を読み、三国志の演劇を見ることは「曹操を見る真の方法ではない」と魯迅は述べている。信頼できるのは、やはり歴史書である。しかし、魯迅は「歴史上の記録や評価は、時に非常に信頼性が低く、多くの点で信用できない。通常、ある王朝の時代が長ければ、そこには多くの善良な人々がいるはずであり、ある王朝の時代が短ければ、そこには善良な人々がほとんどいないということがわかっているからだ」とも述べている。曹操の魏は、まさしく短命の王朝であったため、曹操が「後の王朝の人々に悪く言われるという法則から免れないのは自然なこと」である。

悪口も頻繁に言われると、固定観念となる。固定観念が世代を超えて受け継がれれば、蓄積されて元に戻りにくくなる。曹操に限って言えば、問題はさらに深刻である。なぜなら『資治通鑑』と『三国志演義』という、影響力の極めて大きな2つの書物は、曹操に対しあまり友好的ではなかったからだ。『三国志演義』は言うまでもなく、曹操を「国賊」とみなしている。『資治通鑑』は編纂の過程で、曹操に有利な史料が多く削除されている。 これは実のところ「時代の意見」でもある。宋の時代のほとんどの人々は曹操を好まなかった。蘇東坡の『東坡志林』によれば、当時、街で演じられた講談の観客は、「劉備の敗北を聞くと、しばしば顔をしかめて涙を流し、曹操の敗北を聞くと、喜び歌い出」したという。これは北宋での話である。南宋において曹操はほぼ「悪党」と認識されていた。その後の元、明、清の時代においても、曹操は基本的に汚名を着せられていた。良い評価もあったが、多くはない。18世紀半ばに至って曹操は乾隆帝に「簒奪者」と断罪されると、もはや再起不能となってしまった。

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