【中国の教科書で学ぶ中国史】第二単元 第7課 八カ国連合軍に対する抵抗 1:義和団運動(義和団の乱)【和訳付】 | 中文系.com

【中国の教科書で学ぶ中国史】第二単元 第7課 八カ国連合軍への抵抗 1:義和団運動(義和団の乱)【和訳付】

第7课 抗击八国联军 1

第7課 八カ国連合軍への抵抗 1

义和团运动是一场波澜壮阔的反帝爱国运动,在某种意义上是自19世纪40年代以来中国社会出现的各种矛盾的一次总爆发。而对八国联军的侵略,义和团进行了英勇抵抗,但最终在中外反动势力的绞杀下失败。义和团运动是如何兴起的?他们是如何抗击八国联军侵略的?《辛丑条约》的签订又给中国带来怎样严重的后果呢?

義和団運動(義和団の乱)は壮大な反帝国主義・愛国運動であり、ある意味で、1840年代以降、中国社会に生じたさまざまな矛盾が相まった大爆発であったと言える。そして、八カ国連合軍の侵略に対して、義和団は勇敢に抵抗したが、中国内外の反動勢力の締め付けにより、結局は失敗した。義和団運動はどのように発生したのか?八カ国連合軍の侵略にどう抵抗したのか?「辛丑条約」(北京議定書)の締結は中国にどのように深刻な影響をもたらしたのか?

义和团运动

义和团由山东、直隶一带的议和拳、民间秘密结社和练拳习武的组织发展而来。19世纪末,随着帝国主义侵略的加剧和外国传教士活动的猖獗,这些组织逐渐由反清的秘密结社或单纯的习武团体,转变为具有广泛群众性的反帝斗争组织。
清政府为利用义和团,以“招抚”替代“剿灭”,并承认其合法地位。于是,义和团纷纷拥进天津、北京。他们沿途张贴文告,揭露帝国主义的侵略罪行,通过捣毁教堂、拆毁铁道、砍断电线等方式,表达对外国侵略者的愤怒。到1900年夏,义和团已经控制了京津地区。
在义和团兴起的过程中,曾提出“扶清灭洋”口号。“灭洋”,鲜明地表达了中国人民反对帝国主义的斗争意志,但义和团对洋人、洋教以及轮船、铁路等统统排斥,又具有盲目排外的落后性。“扶清”,则反映出义和团对清政府的本质认识不清,对它抱有幻想。义和团还带有迷信色彩,相信降神附体、刀枪不入等。这些落后因素为清政府控制、利用和镇压义和团提供了条件。

義和団運動(義和団の乱)

義和団は、山東・直隷(現河北省周辺)一帯の義和拳、民間秘密結社、武術修練団体が発展してできたものである。19世紀末、帝国主義侵略が激化し、外国人宣教師の活動が横行するようになると、これらの組織は次第に反清の秘密結社や単なる武術修練団体から、幅広い大衆性を持つ反帝国主義闘争組織へと変貌を遂げたのである。
清朝政府は義和団を利用するため、方針を「掃討」を「帰順」へと替え、かつその法的地位を認めた。 その結果、義和団は天津や北京へと押し寄せた。彼らは道々、帝国主義侵略の犯罪行為を暴露する触れ文を掲示し、教会や鉄道の破壊、電線の切断等を通じて外国人侵略者に対する怒りを表現した。1900年の夏には、義和団は北京・天津地区を掌握した。
義和団が勃興する過程で、「扶清滅洋」(清朝を支え、西洋を討滅する)というスローガンが掲げられた。「滅洋」(西洋の討滅)は、帝国主義と戦う中国人民の意志を明確に表した。しかし義和団が西洋人や西洋の宗教、そして汽船・鉄道までことごとく排斥したのは、盲目的排外という立ち遅れた思想でもあった。一方、「扶清」(清朝を支える)という言葉は、義和団が清朝政府の本質を理解せず、幻想を抱いていたことを反映している。さらに、降霊術による憑依や、刃物で切れず、槍でも刺し殺せないような不死身を信じる等、義和団は迷信的な要素も持っていた。これらの立ち遅れた要因が、清朝政府が義和団を操り、利用し、そして弾圧するための条件を与えたのである。

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出典:
『中国歴史 八年級 上冊』
(中国の義務教育用歴史教科書 中学2年生向け)

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