【中国の教科書で学ぶ中国史】第一単元 第3課 太平天国運動 2:天京を首都に定める【和訳付】 | 中文系.com

【中国の教科書で学ぶ中国史】第一単元 第3課 太平天国運動 2:天京を首都に定める【和訳付】

第3课 太平天国运动 2

第3課 太平天国運動 2

定都天京

1852年春,太平军从永安突围北上,先后围困桂林、长沙、攻克武昌。虽然冯云山、萧朝贵在进军途中牺牲,但队伍发展至50万人。次年春,太平军放弃武昌,分水陆两路,沿长江东下。1853年3月,攻占南京,将南京改名为天京,作为都城。
太平天国定都天京后,颁布了《天朝田亩制度》,规定不分男女,按人口和年龄平均分配土地。太平天国想通过这个方案,建立“有田同耕,有饭同食,有衣同穿,有钱同使,无处不均匀,无人不饱暖”的理想社会。但是,《天朝田亩制度》主张在小生产*的基础上废除私有制和平均社会财富,是不可能实现的,实际上也没有实行。

*小生产:指在生产资料私有制的基础上,以一家一户为单位分散经营的生产方式。

1853年,为了推翻清朝统治和巩固政权,太平天国开始进行北伐和西征。北伐军曾逼近天津,最后全军覆没。西征战场则取得重大胜利。经过3年多的征战,天平天国控制了湖北武昌到江苏镇江的长江沿海城镇,掌握了安徽、江西、湖北东部和江苏部分地区,军事上进入全盛时期。

天京を首都に定める

1852年春、太平軍は永安を突破して北上し、桂林、長沙を包囲し、武昌を攻め落とした。馮雲山と蕭朝貴は進軍する中で戦死したが、軍勢は50万人にまで拡大した。翌年春、太平軍は武昌を放棄し、水陸の二手に分かれ、長江を東進した。1853年3月、南京を占領して天京と改称し、首都とした。
太平天国は天京を首都に定めると、「天朝田畝制度」を発布し、男女を問わず人口と年齢に応じて土地を均等に分配することを定めた。太平天国はこの構想によって、「すべての田畑を共に耕し、すべての食物を共に食べ、すべての衣服を共に着、すべての金銭を共に使い、不平等なところがなく、衣食に困る者がいない」という理想社会を築こうとした。しかし、「天朝田畝制度」は「小生産」*を基礎とし、私有財産の廃止と、公平な富の分配を唱えたが、実現は不可能であり、現に実施されることもなかった。

*小生産:生産手段の私有に基づき、一世帯単位で運営される分散型の生産様式を指す。

1853年、清朝の打倒と政治権力の強化を目指し、太平天国は北方及び西方への遠征に乗り出した。北方遠征軍は一時期、天津まで接近したが、やがて全滅した。一方、西方遠征軍は大きな勝利を収めた。 3年余りの戦いの末、太平天国は湖北武昌から江蘇鎮江までの長江沿岸の都市を制圧し、安徽・江西・湖北東部・江蘇の一部を支配下に置き、軍事的な最盛期を迎えた。

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出典:
『中国歴史 八年級 上冊』
(中国の義務教育用歴史教科書 中学2年生向け)

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